当山は身延山 妙法華院 久遠寺を
祖山と仰ぐ日蓮宗です

いつも身近に花があり
いのちに寄り添い共に生きる
お寺を心がけています

History

日蓮宗 三光山 妙榮寺    
《宗 旨》 久遠の本師釈迦牟尼世尊を教主とし、日蓮聖人奠定の大曼荼羅を本尊とする。
《総本山》 身延山 妙法華院 久遠寺      (山梨県南巨摩郡身延町)
《開 創》 当山は、明治9年(1876)大分市鶴崎法心寺の笠置日耀上人を招請し、現在の中城通りに法窟      を構え蓮池庵を創立したことより始まる。同12年3月鞭馬彦衛門等が一寺建立を大分県令に願い出、9月8日三光山妙法寺と寺号公称を許される。鶴崎法心寺第36世唯信院日厚上人を開山とし、笠置(唯光院)日耀上人を第2世開基上人とする。同年12月には庫裏新築、続いて門1棟土蔵1棟が造られた。明治20年7月15日本堂竣工。本堂安置の三宝尊のうち日蓮聖人像は太閤秀吉が京都の大本山頂妙寺の子院石塔寺に寄進したもので、開眼主は身延山第22世心性院日遠上人(1642年没)といわれる。大正10年鐘楼兼山門完成。山門脇の創建記念碑(明治41年建立)には時の前衆議院議員広瀬貞文の撰で次のように記されている。
「日田の地もと本宗なし。・・・常に他宗に抑圧侮辱されるも上人豪も屈せず、大いに正法を以て権理を折伏す。・・・堂宇創建者及び信徒の艱難辛苦筆舌に尽くし難し。」と。
当山の本来の敷地5反は鞭馬彦衛門氏の寄贈で、その子孫の方は現在名古屋市に在住しています。


《歴 代》
開 基 唯信院日厚上人  明治40年8月   72才
第2世 唯光院日耀上人                笠置師
第3世 唯厚院日達上人 明治35年7月   30才  阿部泰堯師
第4世 唯音院日慈上人 
第5世 唯行院日良上人 昭和2年6月    57才  水田泰温師
第6世 泰通院日扇上人 大正11年4月   57才  正木日扇師
第7世 唯善院日誘上人 昭和41年12月  75才  掛橋泰真師
第8世 掛橋良明上人  平成27年4月   86才 
第9世  佑妙院日玄上人 昭和61年8月   71才  掛橋泰壽師

妙昌寺
開 山 寛通院日如大徳 明治22年7月               隈教会開始者
第2世 持法院日守大徳 明治27年7月   39才         下加隈教会住
第3世 源照院日淳上人 昭和28年9月   82才  加藤龍禎師

《名 称》 昔を知る方は男子校(現咸宜小学校)の前の妙法寺と呼ぶことも多い。
《合併による寺号の改称》昭和30年3月26日、市内大字竹田の妙昌寺(佐賀県小城市 本山松尾山光勝寺末寺)に後嗣無く当山と合併、寺号を現在の妙榮寺と改称した。時の住職は第8世掛橋良明上人
 正干与常妙寺志田原浩儁上人、副干与神力寺横山泰城上人。
総代は中野品三・梅山寒伍・藤本長吉・原田節三・渡辺大吉・梶原政一・古賀庄七の各氏でした。

《山号の由来》当山は日天子・月天子・明星天子の三光天子を祀るが、当地には月隈山・星隈山・日隈山という小丘があり合わせて三隈といい、そのそばを三隈川も流れているところから、三光山の山号をつけたのではないかと思われます。


 幕府直轄地(御領  天領ともいう)日田の郡代
《 先哲 西国筋郡代として活躍した塩谷大四郎正義 とお題目塔 》
               (しおのやだいしろう まさよし 1816~1836)
 日田代官は西国筋郡代とも呼ばれ、豊後・豊前・筑前・日向にある15万石もの天領を支配するとともに、薩摩の島津氏、肥後の細川氏、肥前の鍋島氏、筑前の黒田氏など九州の有力な外様大名たちを監視する重要な役職で、正義は文化14年(1817)10月25日に日田陣屋に着任しました。
 
 日田在任中は小ケ瀬井路の開削、筑後川水系舟運の整備、救済施設・陰徳倉の設置、玖珠日田道路の改修、杉の造林奨励、帰安碑建立、敬老会開催などを行い、現在の日田の基礎を造った恩人であると言っても過言でない功績を残しました。また、豊前の干拓事業にも尽力しました。これは文政7年(1824)から計画され、御領のみならず、肥前島原藩松平氏の領地を始めとして、中津藩、立石藩、日出藩、杵築藩、延岡藩の各領地や宇佐神宮の神領にもまたがる大事業でした。宇佐では盲人田による収入で福祉事業を行っています。
 
 正義は事業遂行に当たって公金を使わず、地元の日田金(ひたがね)と言われる金融業者へ多大の負担をさせたので地元からは不満の声もありましたが、後にはその恩恵に与ることを喜んだといいます。
    正義は生前「君の為に民を思い、民の為に利を思う。民事を軽んずることなかれ、聖言を侮ることなかれ」と自戒し、江戸に帰っても「日田では民政に力を尽くしてきたが、まだ充分ではなかったことは心残りである。しかし長いお勤めの中でも日田在任が最も長く、郡民もよくなじんでくれた。私が死んだあとも魂はきっと隈豆田のあたりにとどまることだろう」と述べていたといいます。
                               参考資料:「代官塩谷大四郎」  久八叢書11  資料篇
                                    「日田の歴史を歩く」 芸文堂  木藪正道著

 その塩谷大四郎正義「唯一院殿成善日道居士」の銘があるお題目塔(総髙さ 約150cm 棹約102cm 尺四方)が、市内城町の慈眼山上にあります。文政4年辛巳7月(1821)に建立されました。正面のお題目を認めたのは妙情寺(東京都台東区谷中に現存する究竟山 妙情寺)第23世諦審院日遵上人です。
 
 この塔は郡代布政所の鬼門方向に建てられています。魔が入り込む鬼門にお題目塔を建て、神仏に永く日田を守ってもらい繁栄していって欲しいという正義の願いが込められたのではないでしょうか。



《淡窓という町名の由来》幕末から明治初期まで、当地に咸宜園(かんぎえん 当山から直線で約100㍍にあります)という私塾を構えた儒学者広瀬淡窓(ひろせ たんそう)先生の威徳を偲んで町名にされました。門弟は全国から集まり延べ5000名以上といわれ、高野長英、大村益次郎、長 三洲、清浦奎吾、上野彦馬らがいます。現在跡地には秋風庵や遠思楼、咸宜園教育センターがあります。
淡窓作の有名な「休道の詩」は、後年広瀬青邨が先生を勤めた京都立命館大学寮歌の2番目の歌詞「柴扉(さいひ)を排せば暁に 君は川流(せんりゅう)我は薪(まき) 他郷憂(たきょうう)しと云うなかれ 椎(しい)の葉蔭(かげ)に相倚りて 手をとり友と語らえば 春は四年に尽きぬべし 春は四年に尽きぬべし」に影響を与えたと言われています。