小論文 2019

今年度7名の方の応募がありましたので、全員の小論文を紹介させて頂きます。

「いのち」
                                    昭和学園高校2年 T・Hさん
 いのちとは、無くてはならないものです。なぜならば、いのちがあるからこそ、私たちはあたり前に喜び、時には悲しみ、家族や仲間と毎日笑いあい過ごすことができるからです。

 しかし、現代ではそんな尊いいのちを簡単に、そして粗末にしてしまうような事件や事故、戦争があります。最近の事件では、友人であるはずの高校生同士で殺人が起きたり、自分の子を車の中に放置したまま自分勝手に行動し子どもが亡くなるなどの事件をニュースで見ます。私には、友達を殺すなんて考えは一ミリも浮かぶことはないので、すごく心が痛みました。また、この世には生まれて、生きたくても生きられない子もいるのに、親の自分勝手なわがままや行動に子どもをまきこんで死なせてしまう、本当に心が痛みます。

 このような事件に共通するのは、他人の事を考えず自己中心的な行動をしている人間ということ、そしてそのような人間が存在する限りこのような事件は無くならないと思います。

 今、世界の国の数は194カ国以上あるそうです。そして、その中で、今戦争しているのは24の国や集団といわれています。

 戦争はいのちを奪うことはもちろん、活動で他国の情報を盗んだり、破壊工作をしたり、あるいは正式な外交ルートで恫喝したりすることだとされています。そんな中で、内戦をしている国は21あります。世界ではそのような戦争でどこかで誰かが日々、いのちを失っているという現実があります。そんな現実に対して個人はもちろんですが、国としてもっと命の尊さを考え直すべきだと思います。また、世界には、貧しくて食べ物を食べれない、病気になってもお金がなく治療ができない、そのような理由でたったひとつしかない命を落としてしまう人がたくさんいます。そんな世の中で、人が人のいのちを奪うなんて決してあってはならないことだと私は思います。

 もし、私の母が何かの拍子に命を落としてしまったら、私は泣いて心にぽっかり穴があいたような気持ちになると思います。これは母に限らず、友達、先生、今までお世話になった人も一緒です。

 生きているものは全てにいのちがありますが環境、年齢、病気、障害など生き方の種類はたくさんあると思います。ですがいのちの重さは、すべて同じだと考えます。なぜなら我々人類はそのいのちを通じてみんなつながりあって生きているからです。
 私は、昔けんかや仲間外れなどをたくさんされてきました。その度に、家族、友達が助けてくれました。あの時、誰にも救われていなかったら誰にも心が開けず、今の自分みたいに笑って元気で過ごせることはなかったと思います。家族、友達には感謝でいっぱいです。

 世の中では、親がいなく恵まれていない子どももいる中、自分が恵まれた環境で過ごしていることを常に頭に置き、親からもらった自分の命を大切にして、感謝を忘れず一生懸命生きていきたいと思います。

 最後に、一人一人が人権を尊重して生き、一人一人がいのちを大切にして生きていけるように自分にできることを精一杯とりくみ、周りにも伝えたいです。そして、楽しく幸せに、笑顔で暮らせる世の中になってほしいと思います。



「高まる自己責任論の中でどう生きるか」
                                   昭和学園高校2年  K・Oさん
 私が最初に自己責任論という言葉を見聞きしたのは約一年前で、私がよく見ていた社会問題を扱う動画の中でした。今回の奨学生募集の課題に取り組む中で、その時に見た動画を思い出しました。それから、私は自己責任論という言葉からこれからの自分がどう生きるか、考えました。
 自己責任論とは、「自分の行動の結果として危機に陥った場合は、自分で責任を負うべきである」という考え方です。また、それは「他人に助けを求めるべきではない」という論理を基調としています。更に危険であることが事前に予測できたにもかかわらず危険を顧みずに敢行した場合は、自業自得だと判断される考え方にもつながります。
 代表的な事例には、イラク人質事件があります。この事件で自己責任論という言葉もテレビやインターネットを通して、社会全体に広がりました。戦争で治安が悪化していたイラクで、日本人三人が武装勢力に拉致および拘束されました。武装勢力は、イラクに駐留していた自衛隊の撤退を求めました。従わないと三人を殺すと主張しました。日本政府はこの要求に応じませんでした。三人は現地の人の仲介で八日後に解放されました。その後危険を承知で入国したことが強く批判されました。また、国内で「自己責任論」の考えも広がりました。私はこの事例を見て、スケールは全く違えども普段の学校生活の中で先生からいつも言われている「今のうちにしっかり勉強しておかないと、大人になって後悔するぞ。」という言葉に通じるものがあると感じました。なぜなら、来週がテストで先生に「テスト勉強をしっかりしておけよ。」といわれた時にやらないという選択をするタイプの人がいます。その人達の多くは順位が落ち、その結果、先生や親に怒られたりします。そうなった時に、大人から言われたことに納得しない人もいるかもしれません。しかし、私はそのような態度をとるべきではないと思います。また、言われて当然とも思います。実は、中学校時代の私も「やらないという選択」をするタイプの人間でした。しかし、高校に入学し、何事にも取り組むという強い気持ちを持って生活することを意識し、勉強や部活動に励んでいます。
 私が高校生になり、とても大切にしている名言が一つあります。「行動しない、自分で考えて決断をしないということは、最大のリスクになりうる」という言葉です。「めんどくさい」「やりたくない」と考える前に行動をすることが重要だと私の心に強く響きました。
 今、私はこれからの人生をより豊かにする為には何が必要かを考えなければいけない年齢だと思います。「自己責任論」における「自分で責任を負うべき」立場にあります。どのような結果が待っていようとも、自分の行動や決断に責任を持たなければいけないことが増えていきます。そのために学校生活のささいなことですが、日々の提出物の期限を守ることや服装や授業の態度をよりよくしたり、校則を守ることなどが、これから私が生きる社会のルールやマナーを守ることにつながると思っています。そのような学校生活を過ごすことで、自分が大人になったときに、良いことと悪いことの区別がつけられる、立派な大人になれると思います。



「いのち」
                                    昭和学園高校1年 H・Aさん
 皆さんは「命」についてどう考えていますか。命とは僕たち人間が生活をしていくうえでまず第一に必要なものです。なぜなら命があるからこそ、僕たちは喜びや悲しみ、物事を楽しむこと、仲間と笑い合うことを実感することができるからです。

 しかし、そんな尊い命が今、次々と失われてしまっています。僕は先日、親を介護することに耐えられなくなった娘が親を殺してしまったというニュースを見ました。僕はそのニュースを見てとても悲しい気持ちになりましたがそれと同時に強烈な怒りが胸に込み上げてきました。なぜ殺してしまったのか、今まで自分を育ててきてくれた大切な人ではなかったのか、恩返しをする気はなかったのか、もっと他に別の方法はなかったのかと頭の中で親を殺してしまった娘に言ってやりたいことが次々と浮かび上がってきました。結果的にその娘は逮捕され、現在は刑務所で自分が犯してしまった罪を償っているそうです。このニュースを今、思い返してみて自分の事に置き換えてみると背筋がゾッとします。自分は絶対にこんなことにはなりたくないと思いました。

 僕は今、親元から離れた場所で生活しています。今から約一年と半年前、僕の家庭である事故が起こってしまい母親と離れざるを得ない状況になってしまいまし。元々、父親が居なかったので母親と離れることで僕と妹は今居る場所に来ることになりました。今居る場所に来ることになってしまった大元のあの日、僕が朝いつものように目を覚まし、リビングに行くと母親は泣いていました。その時すでに妹の姿はなく、学校に行っているようでした。母親が泣いていることを心配した僕はどうして泣いているのか問いかけました。すると母は、「お母さんたち離ればなれにならないかんくなった。ごめんね。」と言いました。前々からいろいろあったことを知っていた僕はイスに座り込み、頭を抱えました。結局僕はその日、遅れて学校に登校し、放課後に学校の担任の先生と話をして、最終的に妹と二人で今居る場所に来ました。正直、最初はとてもつらかったし、周りにもうまくとけ込むことができませんでした。でも、今はなんとか気持ちを振り切って周りにもそれなりにとけ込むことができています。実は、気持ちを振り切ることができたのはある何人かの「命」が関係しています。その何人かの「命」がなければ僕は今も気持ちを振り切ることができずにいたと思います。その何人かの「命」に僕は助けられ、はげまされました。だから、これからは僕を救ってくれた「命」を大切にして、お互いに支え合いながら一緒に生活をしていこうと思いました。

 このことから命とは、誰かを助けたり、助けられたりするのに大事なものだと思いました。だからこれからは人との繋がりを大事にして一つでも多くの「命」を助けることができるような人になりたいと思います。



「出会いと気づき」
                                   昭和学園高校1年  A・Kさん
 私は小学校の頃からいじめを受けてきた。私には何も身に覚えがないのにも関わらず、汚い言葉を投げかけては笑っている人たち。「何故?」という疑問しか持てない日々を過ごしていた。誰にも相談できずに思い悩んだ日々。しかし、昭和学園に入学でき、優しい先輩方と出会うことができたおかげで、多くの気づきをいただくことができた。

 最初のいじめは小学校四年生の一学期の終わり頃からだった。男子二名によって、投げつけられる汚い言葉の数々。それは、中学校へ進学してからも変わることはなく、三年もの間続いた。色々な言葉でいじめられ、その度に悲しく、苦しく、情けない思いを幾度となく味わってきた。自分は何もしていないのにいじめられる理由がわからず、どうしようもなかった。私は悪くない、いじめる人たちが悪いのだ、と思うようにすることで、何とかその場から逃れていた。

 中学二年生の時、同じクラスに趣味が一緒で気の合う女の子の友達ができたことで、私は一人ではなくなった。その友達も過去に同じようないじめを受け、また家庭にも悩みを抱えていた。お互いの悩みを共有、共感することで、私たちは絆を深め、一緒に一歩踏み出すことができたのだった。それからこまめに連絡を取り合い様々な話をしたり、相談し合ったりするようになったことで、それまでのように激しく落ち込んだりすることはなくなった。今でもその友達は、私にとって大切な人であり、これからもそうである。

 そして今年の四月、高校に入学して数週間が経った頃、私は放送部に入部することにした。そこには毒舌だけど優しい先輩。面倒見が良く相談にも良くのってくれる先輩。その明るさで周囲をも明るく元気にしてくれる先輩などなど、個性豊かな人たちが集まっていた。きっとここなら私は居ることができると安心して入部し、現在部活動に参加している。特によく相談にのってくださる先輩の優しさに触れるたびに、世の中にはこんなに優しい人もいるんだなあと思うようにもなった。

 人を平気で傷つけてもそのことに気づかない人もいれば、人の痛みに気づいて寄り添ってくれる人もいる。人の元気を奪ってしまう人もいれば、元気がない人に元気を分けてくれる人もいる。人間不信だった私に、世の中そんなに悪い人ばかりじゃないと気づかせてくださった先輩方には、今、感謝の気持ちしかない。

 この経験は、社会に出てからもきっと生きてくると思う。多くの人と関わっていく中で、自分にも都合のいいことばかりではないし、嫌なことに出会ったときに、乗り越えられる力をつけていきたい。自分の経験を生かし、いじめや差別で悲しい思いをしている人がいれば、声を掛け、手を差し伸べられるような人になりたい。悩みに共感し、一歩踏み出す力のきっかけを与えられるような人になりたい。お互いを思いやり、気づき合い、成長させ合えるような人との関係を作っていきたい。そして、苦しいときに寄り添ってくれた中学時代の友達、昭和学園に入学してから出会った友達、放送部の先輩方、そして先生方にも感謝の気持ちを伝えたい。私と出会ったことで元気になれる人が一人でもできることが、私の願いである。




「いのち」
                                      日田高校3年 H・K さん
 いのちとは、たった一度しか歩めない人生という道である。その道を歩き始めたならいつか終わりが来るのは当たり前のことである。私も終わりが来る、誰にでも終わりがあることは避けられない事実である。その途中、多くのものに出会う。どう関わり、どのような関係を築くのか、どれくらい寄り道をして沢山の経験をすることができるのか、それが人生で一番の楽しみなのではないであろうか。私は少なくともそう思う。

 私は幼い頃、いのちとは何かと聞かれてもまったくわからなかった。しかし、今では少なからず少しはわかると思う。今の世の中、いじめや差別、殺人などでいのちを失う、人生という道の歩みを止めさせられる、そんな人が少なくないと思う。いのちの重みを理解しているのだろうか、いのちをなんだと考えているのだろうか、と怒りをそのたびに覚える。

 いのちとはこの世界に生きるものたちが平等に与えられた道である。それを犯すものたちは決して許されない、許してはいけないと思う。人は悲しみ、苦しみ、辛いとき孤独になる。しかし、それを支えられる、助けられる、喜ばせられる、寄り添い愛を分かち合える人がいるだけで人は歩み続けることができる。いのちある限り、皆が家族なのであろう。こういう言葉がある。「早く行きたいなら、一人で行け。遠くへ行きたいなら、仲間と行け」。私は遠くへ行きたい。沢山の人と出会い沢山のものに触れて関わりたい。そしてなにより、誰かの仲間となり遠くへ行きたいと思う。たった一人でも仲間がいたならばその人にとって大きな存在となり孤独にならないと思う。多くは望まない、私たちはたったひとつ、そのひとつでも何か大切なもの、守りたいもの、人がいるならば歩き続けることができると思う。私は家族、恋人、友人、今までに関わった沢山の人を守りたいと思う。一度しかない人生で出会ったかけがえのない存在である。私もそんな存在になれる人になりたいと思う。遠くを見すぎるのではなく、まずは身近な人たちの存在になりたいと思う。私はこの世にいのちを与えられたものたちが少しでも長く歩き続けられるように影響を与えて生きたいと思う。まだ高校も卒業していない私が語るにはまだまだ未熟すぎて、考えが浅はかであるのは間違いない。だが、これが私の考えるいのちに対しての考えである。あとどれくらい道が続いているのか、あとどれくらい歩み続けることができるのか、いつこのいのちを奪われるのか、それを予想できるものはいないだろう。だからこそ、人は毎日を一生懸命生きるのだと思う。この道が終わるとき、後悔しないように私は生きていく。ほかのいのちをいただくことで生きていられることに感謝して生きていく。脈々と受け継がれてきた先祖のいのちによって今生きていることに感謝して生きていきたいと私は思っている。当たり前のことを当たり前と思わず、私が生きて歩き続けられることに感謝して生きていきたいと思う。




「出会いを大切に」
                                      日田高校3年 H・Nさん
 私には、胸を張って言うことができる特技や経験がある訳でもないし、人に影響を与えられるような存在でもないと思います。そんな私が誇りを持てるのは、周りの人に恵まれていることです。

 私が出会った人の中でも、特に影響を受けた人は中学校三年生の時の担任の先生です。先生はいつもありのまま生徒と接していて、たくさんの人に囲まれている人気者の先生でした。自分を持てなくて、自分がわからなかった私の良いところを見つけてくれて、見出してくれて、進路を決める大事な時期に、やればできる、あきらめるなと私の夢を後押ししてくれました。そんな先生が応援してくれて、今私が通っている高校に入学したことで、かけがえのない経験や思い出、これからもずっと一緒にいたい、仲良くしたいと思える人や仲間に出会えました。先生には本当に感謝しています。

 高校に入ってからも、私にとってたくさんの良い出会いがありました。一生集まれるような友達ができたのは、チアリーディング部に入ったからです。初めて、後輩のことをこんなにも思ってくれて、自分の夢に向かって努力している憧れの先輩に出会いました。一番に後輩のことを考えてくれて「私もこんな先輩方になりたい」と思いました。また後輩も、私たちを慕ってくれて、頑張っている姿を見て私も頑張ろうと思えます。そして同い年で約3年間を共にしてきた五人は、みんな自分を持っていて、自分の意見をしっかり言うことができ、きついことも、喜びも悔しさも一緒に分かち合うことができた大切な友達です。一人ひとり、違った個性を持っていて尊敬しています。そんな部活のみんなと一緒に意見を言い合ったり、貴重な高校生活を送ることで、自分を見つけ、自分を持つことができるようになったと思います。

 私は、たくさんの人と巡り会って、関わって、私も誰かに影響を与えられる存在になりたいです。そのために大学に行って、出会いいろんな人の考え方を知り、学び、夢を叶えたいです。
 私の好きな本に「私たちが出会ったのは、偶然じゃない、運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が私たちを会わせたの。私達は、自分の意志で出会ったんだよ。」という言葉があります。私は、出会いにはすべて意味があるんだなと思いました。お父さんとお母さんが出会っていなければ私は生まれていなかったし、もし少しでも違う選択をしていれば、出会わなかった人もいるかもしれません。もし出会っていなければ今の私はいないと思います。今まで生きてきた中でたくさんの人に出会い、影響されたり、助け合うことで、今の私が出来ていると思うので、すべての出会いに感謝しています。
 これからも生きていく中で、まだまだ数多くの人々に出会うと思います。一つ一つの出会いを大切に、感謝していきたいです。




「いのち」
                                     日田高校1年  M・Sさん
 世の中のすべてのものには「いのち」がある。花や木、牛や馬、そして人間にも。では人間が食べる物のいのちはどうなるのだろうか。私は私達の心の中で生き続けると思う。決して食べられたいと思って食べられているわけではないのでいのちを頂いて生きている私達は感謝の気持ちを持たなければならない。また、人のいのちも私達の心の中で生き続けると思う。五年前、祖父が亡くなった。ずっと一緒に暮らしていた祖父と話すことも笑うこともできなくなった。最初は実感がわかなかったが時間が経つにつれ寂しくなり、祖父の存在は私の中で大きかったと知った。今の生活に祖父はいないが私の心の中には祖父と過ごした楽しい思い出や教えてくれたことがたくさんある。だから私の中では生き続けていて、いつも見守ってくれている気がする。

 人間には皆いのちがある。しかしいのちがあることは共通でも生活のレベルは共通ではない。学校で勉強ができない。戦争でいつ死ぬかわからない。食べるものがない。住む場所がない。このような人達もいれば、好きなものを好きなだけ食べる。食べ物を残す。娯楽を楽しむ。豊かな生活を送っている人達もいる。また、障害があるかないかで生活のレベルに差がでてくる。障害のある人は障害のない人に比べてできることが限られてくる。私の双子の弟は脳性麻痺という障害がある。自力で立って歩くことや上手に会話をすることができない。遊園地に行っても乗れる乗り物は限られているし、車イスに乗っているので通れない道もある。私達にはあたりまえの生活を送ることさえも難しい。

 私が弟と一緒にいたときに思ったことがある。弟は車イスに乗っているので一緒にご飯を食べに行ったときはふつうの人よりもスペースがいる。でも、混んでいる店やカウンターしかない店には広いスペースがないので入ることができない。行きたい店があったとしても店に入る前からあきらめなければならない。まだ全員が暮らしやすい社会ではないと思った。やはり障害のある人の生活は限られてくる。誰もが対等に生きるために今の社会に改善していくべきことはたくさんあると思う。皆が平等にいのちをもっているならば生きていくうえで差があってはいけないのではないだろうか。

 最近「自殺」という言葉をニュースでよく見る。なぜ自殺をするのだろうか。子どもは死の意味をよく理解しておらず、幼い子ほど小さな理由で衝動的に自殺してしまうことがあるそうだ。若者になると悩んで自殺をするそうだ。「死にたい」は実は「幸せになりたい」ということだが、方法がわからずに死を考え始める。私は小さい頃からのいのちについての教育や悩みを一人で抱えこまずに誰かに相談できるようにしていく必要があると思った。教育については、まだ不足しているのではないだろうか。私はよく小学生達が「死ね」や「消えろ」と言っているのを聞く。冗談で言っているつもりかもしれないが、いのちについて深く考えてないからこそ言える言葉だと思う。もし、友達に「死ね」と言ったとき本当に死んでしまったら私は一生後悔するだろう。生死について深く理解しなければならない。
 最後に、人間はいのちを持っているものの中でも強い立場にいる。いのちを頂いて生きているからだ。だからこそ簡単に考えず感謝の気持ちを持たなければならない。また全ての人が平等に生きるために社会の改善も必要である。祖父が私の中で生き続けているように、私も誰かの心でずっと生き続けていけるような、そういう風な人になりたい。

                                               以上