小論文 2020

本年度 3名の方の応募がありました

文章「いのち」
                                    日田高等学校  2年 M・S
 
 一月下旬、私はコロナウイルスの存在を知った。ニュースでは何度も目にするようになり、このことに関して友達と話したことを覚えている。毎年流行するインフルエンザの様なもので、感染しても薬を飲めば一週間程で治るだろうと楽観的に考えていた。しかし事態は私の想像をはるかに超えて日に日に深刻になっていった。
「明日から休校です。」
突如言い渡されたこの言葉に衝撃を受けたが正直嬉しかった。なぜなら私の住む地域はコロナウイルスの被害を受けておらず、今まで通りの生活を送れていたために長い休みであるとしか思わなかったからである。まさか外出自粛の宣言が出て、私の身近にまでウイルスが追ってくることになるとは思いもしなかった。私だけではないだろう。誰が予測できたのか。人類の常識が覆されていく歴史の一部始終を経験することを。
 
 毎日のニュースの内容がコロナウイルスに関連するものとなった。今までどのような話題を扱っていたのだろうと考えてしまうほど一つの話題だけで番組が成り立っていた。感染者の数が毎日増え、中には亡くなってしまった人もいる。
「なぜ日本は緊急事態宣言を出さないのか。海外のように首都封鎖をしないのか。」と国の対応が遅いことについて世間が言い始めたころに本も緊急事態宣言を出した。そして何週間が過ぎると今度は「どこまでなら外出していいの、みんな守ってないからいいや。」
と出された宣言に対して明確な答えを求めたり、制限を軽く考える人が表れ始めた。もちろん明確な答えがなければ人々の行動に差が出るから制限の範囲を統一する必要がある。しかしながら、他人が守っていないと理由で自分も守らなくていいというのはおかしな話である。大切な人の命を守ることを考えたならば、すべきことは一つなのである。それは自分がかからないことである。自分がかからず相手に移さなければコロナウイルスの数は収まり安心して暮らせる社会に戻るであろう。簡単に収束するものではないとわかっているが、まずは自分のできることから始めることが大切なのである。今もコロナの影響は広がっているが私たちはなんとか生活を送ることができている。それは、医療従事者の方々が懸命に支えてくれているからである。  

 私はある番組で医療現場で働く方々のドキュメンタリーを見た。スタッフの数より何倍も多い患者の処置をするために寝る暇もなく働いている。病状の悪化を防ぐために原因を必死に探している。感染して命を落としてしまうかもしれないリスクを抱えながら毎日医療現場で仕事をしている。誰かの命を救うために自分の命が犠牲になっている今の状況に私たちは感謝しなければならないし敬意を表す必要がある。さらにその現状を打破しなければならない。
 
 医療従事者の家族が差別されている話を聞いた。親が医療現場で働いているという理由で周りの友達から差別を受けるそうだ。私はこの話を聞き、こんなことはあってはいけないと怒りを覚えたと同時に少し不安になった。なぜなら私の母は看護師であるため病院で働いているからだ。だから私も差別を受けるようになる日が来るのではないかと思った。どうして命を惜しんで働いている立派な親がいるのに菌のように扱わなければいけないのだろうか。きっと差別をする人は相手の立場に立って想像することができないのだろう。もし想像することができたならば差別などできないはずである。
 
 私は今回のコロナウイルスの拡大で人の命は本当に弱いものであると知った。一つのウイルスによって毎日何万人という人が被害を受け、多くの人々が亡くなっている。亡くなった人にも未来があり、大切な人がいて、愛されて生きていただろう。しかし命を失えば未来を歩むこともできず周りの人は悲しむだろう。命がなくなるということは喜びや希望をもたらさない。生きているということがどれほどに尊いものなのかを知った。
 
 コロナウイルスが目に見える敵であれば戦うことが可能だろう。しかし目に見えない敵と戦うことは知識のない私には不可能であり、攻撃することも反撃することもできないのである。だから私にできることを確実にしていかなければならない。これ以上被害が拡大するのを防ぐためにも、人類がコロナウイルスとうまく共存していく方法を考えて、いつの日か収束して皆が笑顔になることを願いたい。



「高まる自己責任論の中でどう生きるか」
                                      日田高校 2年  H・M

 『自己責任論。』え、『自己責任』って言葉なら何度も聞いたことある。『自己責任論』とは何だろうか。この作文を書くにあたって初めて知った。『自己責任論』とは、自分の行動の結果として危機に陥ったのなら、自分で責任を負うべきであり、他人に助けを求めるべきではないという考え方。また、危機であることが事前に予測できたにもかかわらず、危険を顧みずに行動をとったのだから自業自得だとする考え方だそうだ。現代で考えると、貧困で苦しんだり、病気になってしまったのは全部その人の努力不足ということだろう。

 今、世界中で蔓延しているコロナ。これを例に自己責任論について考えようと思う。調べて記事などを読んでいると、外国に比べ日本は「新型コロナウイルスに感染するのは自己責任」と考える人が多いことがわかった。また、逆にコロナウイルスへの感染について「自業自得だとは全く思わない」と考える人は、とても少ないのだ。つまり、日本人の多くが、「コロナウイルスに感染したことについて本人に全く責任がないとは言えない」と考えていることがわかる。ニュースや毎日の報道を見ていても思う。感染した人の行動履歴などを確認しては、「自業自得」だと思う人がほとんどだろう。私もそうだ。県外に外出したり、会食、飲み会、政府からあんなにも三密を避けろと言われているのに、それらの行動をとるからだ。感染して当たり前じゃないか、と思う。だけど、そう思うことができるのは自分がその人とは他人であるからだ。他者である離れた立場だから、その人の行動を責めるように『自己責任』だという感情を抱くのだろう。もし、自分に身近な人や、親、自分が感染したとしたら。抱く感情は全く違ったものになるはずだ。その感情を誰にでも持つことができるといいなと思う。そんな人になりたいと思う。そんな行動をしたから感染して当たり前だ、という考え方を変えていかなければならないと思う。そんな考え方があるから「コロナ差別」というものなんかができたんじゃないかと思う。

 市内のスーパーへ行くとき。母と車に乗って駐車場でのこと。今までなら気にしてなかったのに、
「あ、○○県ナンバーじゃん。遠いのに。怖くない?」
と母が言った。その車の持ち主も、母も悪いわけではない。今の状況が人の意識をそうさせたのだろう。しかし、こういったことを気にしている気持ちも差別と呼ぶのだと思う。

 コロナ禍の今。起きていること全てに、自己責任だ、自粛しろなどと言っては、傷つく人がいる。人々が様々なことに敏感になったり、心配になっていて、不安になって、人を傷つけたり、差別してはいけない。誰かを責めたり、当たってはいけない。自己責任や、自分の意見を正論化し、誰かを悪者に仕立てあげることを、これ以上続けてはいけないと思う。人々が安心して、誰も傷つかない世界に変わっていって欲しい。世界中が今こうなってしまっているのは、誰かが悪いわけじゃない。だから、人がどうなっても、自己責任だから関係ないと思うのではなく、一緒に考えたり、助け合うことができるようになりたい。そして、また、私もそのような人になれるように努力したいと思う。



「いのち」
                                        昭和学園高校 S・T

 私は高校の福祉科に入学し、「いのち」について深く考えるようになった。確かに、いのちというのはかけがえのない誰もが大切にしているものだろう。しかし、それは自分のいのちだからだ。ニュースで誰かが、亡くなる事に対し、一瞬の感情で終わってしまう。人とはそういう生き物だ。なぜ、他人の事になると無関心になるのだろうか。いのちは一番大切なものなのに。

 私は高校の介護実習でいのちの大切さを感じた。介護施設には自分で生活することが困難な高齢者の方が多く入居している。私は高齢者が好きという理由で福祉科に入学したが、ただ好きという気持ちだけで介護という仕事は出来ない事も知っていた。実習中に私は職員に、どのような思いを持って仕事をしているのか聞いてみた。すると職員から「ただ高齢の方が好きという理由だけでなく、一生懸命に生きようとしている姿を見ると助けたくなってしまう。だからその思いに応えたくて仕事をしている。」と返ってきた。

 私はその話を聞いて、人の喜びや悲しみを自分の事かのように感じることができる人になろうという考え持ちながら実習を行った。まずは相手のことをよく知るために積極的にコミュニケーションを行った。最初は私から話しかけて会話をしていたが、次第に向こうからも声をかけてくれるようになり、良好な関係を築いていくことができた。共にコミュニケーションに参加したりして笑顔になっている利用者を見ると、不思議と私も笑顔になっていた。この時私は人の喜びを自分の事のように喜べたことを肌で感じた。その後利用者に感想を聞くと「とても楽しかった。また参加したい。そのためにも長生きしたい。」と返ってきた。こういったレクリエーションなどを通して、その人の生きたいという思いを促しそれに対し、介護者である私達が同じ思いを持って介護をすることが大切だと感じた。私が将来施設に入居することになったら、人のいのちを自分のいのちのように大切にしてくれる所に入居したいと実習を通して感じた。

 私もどちらかと言えば、人の命について深く考える方ではなかったが、実習を通してその考えを改めることができた。最初から、「命を大切にしろ。」と言われても難しいと思う。私もそうだったから、コミュニケーションから始めた。人と会話をしていくうちにその人の事について知ることができる。そうするとその人と喜びや悲しみを分かち合うことができるようになる。これがいのちを大切にする第一歩になると思う。コミュニケーション以外にもいのちを大切にしようと思うきっかけはたくさんある。例えば、テレビや本だったり。きっかけを見つけいのちを大切にする人達が増えれば、犯罪なんて無くなると思う。身近な事で言えばいじめだ。いのちの大切さをわかっているなら、人を傷つけようとせず逆にいじめている人を注意できる。そういう人達が増えるようにまず私が、困っている人がいたら声をかけたりあいさつをしたりすることで人との繋がりを大切にし、いのちについて考えられる人になる。


                                                以上