小論文 2018

昨年度応募された、お二人の文章を紹介させて頂きます。

「いのち」
                                  昭和学園高等学校一年  R.Yさん
 ニュースや新聞で自殺をした子どもに関する内容を目にすることが増えている気がします。実際に私の周りでも今年の6月から7月のたった一ヶ月で二人の友人が自殺しました。そのような出来事を受けて私は“自殺をした友人やその他の人達はどのような悩みを抱えていたのだろう”と考えることが非常に多くなりました。多くのニュースなどの背景には、友人関係やいじめ、けんかなど私の身近でもよく起こりそうな出来事が原因の一つであることが多く、改めて自分自身の高校生活を見直すべきだと思いました。
 私は死にたいと思うほどの悩みを抱えたことはありません。しかし、高校生になり、友人との付き合いは難しいと日々感じています。高校へ入学したということは新しい環境になって新しい友人と出会い、これまでの自分と違う考え方の人や性格が大きく違う人とも共存していかなければならないということです。そんな中、始まった高校生活の初めの頃、私は人見知りをしてしまう性格のため、初対面の人とは全く会話をすることができませんでした。そして私はなんとか話せるようになった友人とのみ会話をしていました。しかし、誰にでも話しかけることができる人は多くの友人に囲まれていました。私はこのままで多くの友人を作ることができるのだろうかと悩むことが増えました。またできた友人に対しても私の本心をはっきる伝えることができていない状況にも悩んでいました。「掃除なんで面倒くさいから、さぼろう」と仲良くなっていた友人に言われ、私は「さぼるのは楽だけど、自分たちが使っている校舎だからさぼることはできない」と本心を伝えることができませんでした。その理由は嫌われることが怖かったからです。しかしそのような友人関係が本当の友人関係なのか、そのことについて考えていくうちに、“違う、そうではない”と考えるようになりました。互いの本心を伝え合い、互いに理解しあえるようになることで信頼できる友人関係は出来上がると考えるようになりました。
 今回、このような機会をいただいて改めて“いのち”の尊さを学び考えていく中で私たち高校生にとって友人関係というものは本当に大きく、重要なものであると思いました。人にはそれぞれ持っている個性があります。その個性を認め合うこと自分の想いを文字や言葉にして相手に正直に伝えること、それらは簡単にはできないことですがとても大切なことです。そんな難しいことに毎日向き合いながらも生活できるのは“いのち”があってこそです。いのちがあるからこそ、悩みを抱えることもでき、その悩みの先に新たな喜びや成長があることを知ることができる。だからいのちのは尊いのではないのかと私は思います。
 自殺や殺人など、いのちを軽く考えているような事件があとを絶たない中で、いのちがどれほど尊いものであるのか、身近な生活の中でそれを感じ取る機会というのはあるはずです。でしがそれに目を向けられない人、気が付かない人がたくさんいるのだと思います。私は友人の自殺がきっかけとなってしまいましたが、いのちというものをもう一度しっかりと見直す機会ができました。当たり前に過ごす毎日の中で、もう一つじっくりと考えて行動し、より多くの友人関係を築きたいと思います。そしてその中でもっと多くの友人を支えることができる存在へと成長したいと思います。
                                               以上
 


「生きる~母の病気から学んだこと」
                                  昭和学園高等学校一年  M.Tさん
 母は私が中学三年生の時に乳がんと診断された。がんの切除とその後の治療のために三ヶ月入院した。つらい治療の連続だったが、それでも家族のために生きようと、母は懸命に頑張ってくれた。退院の時、母が治ってくれたと、家族全員が大きな喜びに包まれた。
 そんな母の頑張りに背中を押されるように、私は大好きなソフトボールを真剣に取り組みたくて、故郷阿蘇から日田の昭和学園に入学することを決めた。母のためにも頑張ろう。どんなに練習がつらくても絶対にやり遂げよう。私はそう心に決めた。しかし、母や家族のわずかな平穏を奪うように、私が昭和学園に入学して間もなく、また母のがんが再発した。検診の結果を受けたその日の夜、母から私への告白の電話があった。
 直ぐにまた手術をしなければならないこと、今度から用いる抗がん剤治療で髪が抜けてしまうことなど、内容は私の胸を刺すものばかりなのに。
「平気平気。お母さんは大丈夫だよ。生きられるなら髪の毛くらいはなんてことない。」
などと、あっけらかんとした話し方だった。今思うと、少しだけ暗い声で話し始めたように感じるが、母が語る話の内容は、冗談を言うような、そんな努めて明るい調子だった。母自身が一番つらいはずなのに、私を心配させまいとするその母の思いが、私の心をさらに深くえぐった。何日かして、実家の兄と電話で話した時、兄が、母はいつも泣いていると教えてくれた時、そばに居てあげられない自分が悲しく、そして悔しかった。
 母のために自分が何ができるか思い悩む日々が続いた。学校を辞めて阿蘇に帰ろうと思うことも何度もあった。しかし、それを母は一番望んでいないことも分かっていた。どうしたら・・・。苦しい日々が続き、ようやく私が出した答えは、『何があっても笑って頑張ろう』というものだった。母の病気は、本当に予断を許さないもので、私たち家族には母を支えることしかできない。しかし、その母が私たち家族を懸命に支えてくれている。私が、笑顔で頑張れば、きっと母も笑顔で頑張ってくれる。そう信じる。
 今までの私は、何か良くないことがあると、他人のせいにして、何かをやろうとして始めても、直ぐに弱音ばかりで結局行き詰まり、最後はできなかった言い訳を上手に取り繕う。そんなことの連続だった。しかし、母が病気と命を懸けて戦いながら、私たち家族を守ろうとしてくれている姿に、自分のしてきたことがとても恥ずかしく、情けないことだと気が付いた。
 二年前、熊本地震が起きた際、私たち阿蘇の住民は、互いに助け合い、励ましあって災害を乗り越えてきた。その時も、亡くなった人のことを考え、いつ何が起きるかわからない、悔いのない生き方をしようと思った。しかし、母の病気とのことを経た今、その思いが少し変化している。私は、自分の事だけ考えて自分が悔いなく生きられればそれが幸せだとは思えなくなってきた。誰かを思ったり支えたり、逆に優しさをもらったり、そんなことを積み重ねることが、生きるということではないかと考えるようになったのだ。
 母と病気との闘いを私のできる形で支えること、そしてそのために『何があっても笑って頑張る』ことは、私の心の底からの決意だ。
                                               以上